経緯-時系列
1941年
9月19日
ドイツ軍によりキエフ陥落
9月24、5日
キエフ市中心地(クレシャーチク・プロリーズナ通り)空爆。
コンティネンタル・ホテルに司令部のあったドイツ軍の将校らが多数犠牲になる。
クレシャーチク通りで消火用ホースを切断したかどでユダヤ人が射殺される。(爆撃・火災の責任をユダヤ人に転嫁し始め)
ドイツ軍のユダヤ人抹殺計画が討議される。参加した将校は以下の通り。
・キエフのドイツ軍司令官のエーベルハルト少将
・高級SSと警察指導者でSS大将のフリードリヒ・イェッケルン
・C行動部隊の司令官で親衛隊少将のオットー・ラッシュ博士
・4a特殊部隊司令官で親衛隊少佐のパウル・ブローベル
出動部隊
・SD(保安部隊)と保安警察から成る4a特殊部隊
・武装親衛大隊
・第9小隊
・警察大隊
・警察連隊「ジュート」の第45、305大隊
・ウクライナ補助警察部隊
28日
ユダヤ人へ29日早朝に出頭を促す布告が出される。第6軍団の印刷部による。
29日
数千人のユダヤ人が出頭。「ユダヤ人は列車で労働収容所へ送られる」との噂が流れ、またルキヤーノフカの貨物駅も近くにあったため、それを信じた多くの人が集まったものと見られる。
メーリニク通りを100人づつのグループにわけられたユダヤ人がSS、SD、ウクライナの補助警察に補導されながら墓地に向かった。
バービィ・ヤールのくぼ地は有刺鉄線のフェンスが張り巡らされ、3つの部隊により3重に包囲されていた。外側はウクライナ警察、2層目はウクライナ警察とドイツ人、、内側はドイツ人だけの層。
殺害現場では持ち物を捨て、衣服を脱いだ人々が谷の淵に10人づつ並べられマシンガンやショットガンで撃たれた。
行動部隊Cのレポート。「元来我々は5-6000人ほどしか来ないものと見積もっていたが、実際ユダヤ人たちは自ら3万人も現れた。これはあの時移送が行われるとの噂を信じたものであり、宣伝部の功績によるところが大きい」
10月3日
この日までユダヤ人の大量殺戮は続いた。これ以降バービィ・ヤールではユダヤ人のほか、ウクライナ人、ソヴィエト軍の捕虜、シプシーなどの殺戮も行われた。
1943年8月13日
ドイツ軍によるバービィ・ヤールの証拠隠滅工作が開始される。ほとんどの遺体が囚人の手により掘り起こされ、焼却されたとされる。詳しくは証拠隠滅の項を参照。
1943年11月6日
ソヴィエト赤軍によりキエフ市が解放される。
ソヴィエトの情報によると、占領から解放までの間に同地域では10-20万人が殺されたとする。
また、行動部隊Cの1941年10月7日のレポートによると殺されたユダヤ人は3万3771人(加害者であるドイツによる報告)であると述べられている。
戦後の証言によると、保安警察・保安本部(SD)部長のもとには、隣人のユダヤ人を密告するウクライナ人市民からの投書がバスケット一杯に溜まっていたが、彼の部署ではこれらすべてを処理することはできなかったとのこと。
逆にナチの迫害からユダヤ人をかくまったウクライナ人もいる。1990年ウクライナのユダヤ人委員会は、これらの人々-431人の異教徒を「バービィ・ヤールの正義」として叙勲している。この賞はその時点で存命するすべての家族にも与えられた(隠匿がばれれば家族もろとも射殺される危険があったため)。
