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4.バービィ・ヤールからの逃亡

ふたりはひどく長いあいだゆっくりと這っていった。途中で断崖にぶつかり、向きを変えたりしながら。どうやら、ひと晩じゅう這っていたらしい。そのうち夜が明けてきた。そのときふたりは、茂みを見つけ、その中へもぐりこんだ。
ふたりは、大きな谷のほとりにいた。ちょっと向こうに、ドイツ兵たちが見える。かれらは、こちらにやってきて、いろいろな物品の種分けをはじめ、それをつみあげていく。ドイツ兵のそばには、綱につながれた軍用犬が、ぐるぐる歩きまわっていた。ときおり、トラックが、つみあげた物品をとりにやってくる。しかし、普通の荷馬車が、たび重ねて通ってきた。
すっかり夜が明けたころ、ふたりは、逃げていく老婆の姿を見た。そのうしろを、六才ぐらいの男の子が『お婆ちゃん、こわいよう!』と叫びながら追っていく。しかし、老婆は男の子をふりきって逃げる。ふたりのドイツ兵が、かれらに追いついて、射殺してしまった。まず老婆を、つぎに男の子を。
ドイツ兵たちは、なにか大きな声でしゃべりながら、たえず、斜面を登ったり下ったりしていた。どこか近くで、ひっきりなしに銃声がきこえている。あんまり射撃がつづくので、ジーナは、まったく絶え間なく射撃がつづいているように感じた。そして、夜になっても、まだきこえているような、気がした。
ジーナと男の子は、横になり、うとうとしては目をさました。男の子の語るところによれば、かれの名はモーチャといい、もういまは、ひとりぼっちになってしまった。モーチャは、射撃がはじまったとき、おとうさんがたおれるのといっしょにたおれた。ジーナは、かれのおびえた顔を見つめ、思わずこう考えた。もし、助かることができたら、この子を養子にしよう、と。
夕方、彼女は幻覚におそわれた。自分の方に向かって、父や母、妹などがやってくる。かれらは、長い白い衣をまとい、みんな笑いながら、とんぼ返りをしてみせる。ジーナが、はっとわれに返ると、自分のそばにモーチャが坐って、泣いていた。
「おばさん、死んじゃ嫌だ。ぼくをおいてかないで」
ジーナは、けんめいになって、いま自分がどこにいるのか、思いだそうとした。もう、かなり暗くなってきたので、ふたりは茂みから出て、さらに先へと這っていった。ひるまのうちにジーナは、道をきめておいた。広い草地をはって、遠くに見えていたやぶまでいくのだ。しばしば彼女は、意識を失って、身を起こそうとする。そのたびに、モーチャが、彼女にとりすがって、地面におしつけるのだった。
どうやら彼女は、意識を失いかけているらしかった。それで、一度などは、谷に落ちてしまった。ふたりは、一昼夜以上にわたって、のまずくわずだった。しかし、どういうわけか、そんなことを考えもしなかった。
こうしてふたりは、夜が明けるまでさらにひと晩這っていた。前方に茂みがある。モーチャは、追って偵察に出かけた。ふたりは、何度もこういうことをくり返してきた。万事良好の場合には、モーチャが、茂みをゆすって、知らせることになっている。しかし、モーチャは、つきさすような声で叫んだ。
「おばさん、きちゃだめ、ドイツ兵だ!」
そして、銃声がひびいた。モーチャは、たちどころに、射殺されてしまったのだ。
幸いなことに、ドイツ兵には、モーチャがなにを叫んだのか、分からなかった。ジーナは、砂地をうしろへ這っていった。そのあとで、ただもう機械的に穴を掘り、その上にきちんと土まんじゅうをこしらえた。そして、自分の伴侶だったモーチャをここに葬っている心になって、さめざめと泣きはじめた。彼女は、もうすっかり錯乱状態だった。
夜があけてくると、ジーナは、自分が道路の上にぺたんと坐りこんで、からだをゆすっていることに気づいた。左手には塀があり、なにやら露路みたいになっている。ジーナは、あわててそっちの方に這っていった。そこにはごみすて揚があった。彼女は、ごみの中にもぐりこみ、さまざまなごみきれや紙などを、自分のからだの上に投げかけ、頭の上にはごみかごをすっぽりとかぶり、その下で息をしていた。
こうして、じっとそこにかくれて横たわっていた。一度、そばをドイツ兵たちが通りかかり、立ちどまって、しばし、夕バコをふかしたりした。
ジーナのすぐ前は、野菜畠のはしになっていて、そこに青いトマトがふたつなっているのが、見えている。それをとるためには、這って近づいていかねばならない。そのときのジーナは、ただもう喉が乾いてたまらなかった。そして、苦しい忍耐がはじまった。彼女は、一生懸命、なんでもいいからべつのことを考えようとして目をとじ、自分にいいきかせたり、トマトのことなど考えてはいけないと、命令したりした。だが、まるで磁石にでもすいよせられるように、トマトの方にからだが向いていった。ジーナは、這いださずに、暗くなるまで、ずっと横だわっていた。
真暗になると、早速、這い出て、トマトを手さぐりで見つけ、たべ終わるとまたしても、腹這いになって帰ってくる。あんまりいつも這ってばかりいたので、立って歩く方法を忘れてしまったような気がする。
長いあいだ這っていくうちに、有刺鉄線をはった防空壕の中に落ちてしまった。明け方になって、見ると小さな家があり、その向こうに納屋がある。その納屋にしのびこむことに、きめた。納屋の戸はあいていたが、ジーナが這いこんだか、こまないうちに、庭で一匹の犬が、吠えはじめる。と、となり近所の犬たちが、いっせいに吠えはじめた。まるで何百匹もの犬が吠えているように、ジーナには感じられた。えらい騒ぎになってしまった。ねぼけまなこのおかみさんが出てきて、叫ぶ。
「静かにおし、リャープコ」
彼女は、納屋をのぞいて、ジーナに気づいた。おかみさんは、けわしい顔つきをしている。彼女がジーナに、いったいあんたはだれで、なぜこんなところにいるのかとたずねはじめると、思わずジーナは嘘をつき、防空壕から出てきたのだが、道に迷ったので納屋で夜を明かそうと思ったのだ、と答えた。そして、わざと、警備司令部にいく道までたずぬた。
「おまえさん、どこにいたんだね?」
「ビーリイ教会のそばです」
「ビーリイ教会のそば? ふん、そうかね……」
ジーナの格好ときたら、たしかにひどいものだった。からだじゅうに血がこびりつき、泥と砂にまみれている。靴は、砂の採取場にいるうちになくしてしまったし、靴下もぼろぼろだ。
騒ぎをききつけて、近所の人たちが現われ、だんだんとジーナをとりまいていく……
どうやら、ドイツ軍も、どこかこの近所にいるらしい。なぜなら、たちまちひとりの士官が現われたからである。
かれは、ジーナをじろじろ見てから、うなずいた。
「コム(こい)」
そして、先に立って小道を歩いていった。ジーナは、かれのあとをついていく。士官は、なにもいわず、ただときどき、ジーナがついてくるかどうか、ふり向いてたしかめる。ジーナは、胸に手を組み、からだをちぢめていた。彼女は寒くなってきた。右腕が痛む。それは血だらけだった。傷だらけの両足もうずく。
ふたりは、一階建ての煉瓦の家に入った。そこでは二十人ばかりの兵隊が、朝食をとり、アルミの茶碗でコーヒーをのんでいた。ジーナは、部屋のすみの椅子に腰かけようとしたが、例の士官がどなりつけたので、床にぺたりと坐った。
やがてドイツ兵たちは、小銃をもって、ばらばらと散っていった。当直の兵隊が、たったひとり残った。かれは、あちこちと歩きまわり、テーブルを片づけ、ジーナに向かって椅子をさし示す。かまわんから、坐れ、という意味だ。
ジーナは、椅子に移った。兵隊は窓を見つめていたが、ジーナにぼろぎれをわたし、彼女にガラスをふけという、身ぶりをする。窓は大きく、ほとんど壁いっぱいで、ちょうどベランダの窓のようにいくつも桟が入っている。そして、その窓からのぞいて気づいたのだが、ジーナは、バービイ・ヤールの近所をぐるぐる這いまわったあげく、またしても、出発点と同じ場所にきてしまったのであった。
当直のドイツ兵は、小さな声で語りはじめた。ジーナにはかれのいうことが分かっていたが、ドイツ兵の方は、ジーナに分かってもらえないと思ってか、懸命になって説明しはじめた。
「おまえ、少しでもおれのいうことを分かってくれよ。指揮官は出ていった。おれがおまえにぼろきれをわたしたのは、おまえを逃がしてやるためだ。窓をふきながら、どっちの方向へ逃げたらいいか、よく見ておくんだ。いいか、分かってくれよ、このまぬけめ、ぼんくら頭めが!」
かれは、いかにも同情するように語った。ジーナは、どうもこれは挑発じゃないらしい、と考えた。しかし、こういう状態にあっては、なにも信用することができない。そして、なにをいわれても、分からないふりをして、頭をふっていた。
兵隊は、腹だたしげに彼女に箒をもたせ、となりの家に掃除にいかせた。そちらには、まるっきりだれもいない。ジーナは、ぱっと走りだして、逃げようとした。ところがそこへ、人びとの騒ぐ音と泣き声がきこえてくる。さっきの士官が、十五、六才の娘をふたり従えて、現われた。
娘たちは、叫んだり泣きわめいたりしながら、地面に身を投げ、士官の長靴に接吻しようと必死になり、どんなことでもがまんするから、銃殺だけはしないでくれ、と哀願しているのだった。ふたりは、おそろいの小ざっぱりした濃い色のワンピースをきて、スカーフをかぶっている。
「わたしたち、子どもの家からきたの!」と、ふたりは叫ぶ。「自分たちがなに民族かなんて、知りません。わたしたち、結核だっていわれて、ここへつれてこられたのよ」
士官は、ふたりが床にたおれるのを見て、つと足をひいた。そして、娘たちとジーナに向かい、うしろについてこいと、命令した。
かれらは、みんなが服をぬがされた広場にやってきた。そこには依然として、衣服の山や靴などが、あちこちにごろごろしている。片すみの、いろいろな物品をつみあげた向こうに三、四十人の老人、老婆、病人などが、坐りこんでいた。きっと、残った人たち、アパートにいてつかまった人たちに相違ない。
ひとりの老婆が、中風病みのからだを毛布にくるんで横たわっていた。
ジーナとふたりの娘は、かれらのそばに坐らされた。娘たちは、小さな声で泣いている。
三人は、砂地がちょっとくぼんだところの下に坐っていた。そして、くぼみのところを、自動小銃をもった番兵が、いったりきたりしている。
ジーナは、その番兵が遠ざかっては、また近づいてくるのを、上目づかいに追っていた。番兵はそれに気づいて、いらいらしはじめ、いきなりドイツ語でどなりはじめた。
「なにを見てるんだ? おれを見るな! おれは、おまえをどうにもしてやれないんだ。おれにだって子どもがいるんだぞ!」
ジーナは考えた。ドイツ人の中にも、こういうやり方を心苦しく感じているものも、あるんだな、と。
ジーナのそばに、詰襟服をきて外套をまとった娘が坐りこみ、ジーナが寒さにふるえているのを見ると、外套でくるんでくれた。
ふたりは、小さな声で話し合った。娘はリューバといい、十九才。勤めに出ているうちに、ドイツ軍の包囲からぬけられなくなったのだという。
ソヴェト軍の捕虜をのせたトラックがやってきた。捕虜はみんな、シャベルをもたされている。老人たちは、恐怖につつまれてそわそわしはじめた。まさか、生きたままうずめられるんじゃあるまい? しかし、捕虜のひとりが、遠くからみんなを見て、こういった。
「あんたたち、運がいいぞ」
みんなは、立だされて、このトラックの荷物台に追いあげられた。ふたりの兵隊が、毛布にくるまった老婆をもちあげ、まるで丸太のように荷物台におしあげる。上では、べつの手が、彼女を抱きとめた。
荷物台には屋根がなく、高い側板がついている。ひとりのドイツ兵が運転台に坐り、もうひとりが荷物台、四人の警官が、側板に腰かけていた。
いったい、どこへつれていかれるのだろう。
こういう行動に、なにか論理的一貫性があるのだろうか。衣服をはがれるものもいれば、はがれないものもいる。射ち殺されるものもいれば、こっちにつれてこられるもの、こっちからつれ去られるものがいる……
トラックは、メーリニク街にやってきた。そこには、大きな自動車工場がある。広大な敷地には、ガレージや工作工場の入口が、たくさん見えている。ひとつの入ロがあけられた。中には、まるでにしんのように、たくさんの人がぎゅうぎゅうづめになっているではないか。かれらは、わめいたりあえいだりしている。そして、どっとばかり入口からあふれ出た。一夜のうちにこの群集は、街からここへ追いこまれたのだ。そして、このガレージの中で数日にわたって、銃殺の番がくるのを待っているのである。
毛布にくるまった中風の老婆は、荷物台からひぎだされ、ガレージにつっこまれる。ドイツ兵たちは、叫びや悲鳴をあびながら、やっとのことで入口の戸をしめ、なにやら気づかわしげにふたりでしゃべっている。ジーナは、ドイツ語が分かるので、耳をそばだて、これからいったいどうなるのか? と考えてみた。
トラックは、工場の敷地からバックしはじめる。ドイツ兵たちは、荷物台からとびおり、四人の警官が残った。ふたりは運転台、あとのふたりは、側板のところだ。しかし、ふたりとも、側板のうしろの方ではなく、ちょうど中ほどに腰かけていた。ジーナとリューバは、すばやく話し合った。とびおりるなら、いまだ。射たれるかもしれない。射つなら、射て。少なくとも、それは突然におそってくる死だ。順番を待たないですむ。
トラックは、急スピードで走る。リューバは、外套でジーナに風があたらないように、してくれた。大通りをぐるぐるとまわって走る。どうやら、シュリャーフカか、ブレスト・リトウスク街道の地区にでもいるらしい。
外套におおわれたまま、ジーナは、トラックのうしろの側板をこえて、全速力で疾走する車からとびおりた。彼女はたおれ、舗石道にぶつかってけがをし、血まみれになった。しかし、トラックの連中は、彼女に気づかなかった。
あるいは、あえて気づこうとしなかったのかもしれない?
通行人がジーナをとりまいた。ジーナは、もぐもぐ弁解しはじめた。トラックにのせてもらい、市揚のそばでおりようとしたのに、運転手がきいてくれない。そこで、とびおりることにしたのだ……と。ジーナのいうことを、みんなが信用したか、しなかったのか、ともかく彼女は、自分の周囲に人間らしいひとみのあるのを見た。彼女は急いで、近所の建物の中庭につれていかれた。
三十分後には早くも、ジーナは、ポーランド生まれの兄嫁のかたわらにいた。ひと晩じゅうお湯をわかし、傷ロにはりついたシミーズを、お湯ではがしてもらった。
(了)

         

このテーマの項目一覧

1.バービィ・ヤールに向かう行列

2.殺戮直前の様子

3.ジーナも谷へ連れて行かれる

4.バービィ・ヤールからの逃亡