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2.殺戮直前の様子

たしかに、大部分の人たちが、ジーナと同じように感じていたといってよかろう。かれらは、なにか不吉なものを感じてはいたものの、それでもまだ、『われわれは移送されるんだ』という考えを、すてきれずにいた。しかもそれには、それなりの理由があった。こうなる前に老人たちは、ずいぷんとこんなふうに語ったものである。ドイツ軍は一九一八年にもウクライナに侵入したが、そのときには、ユダヤ人になにも危害を加えず、両者の関係もうまくいっていた。それというのも、ことばが似ているから、それでやっぱり……というのである。
老人たちは、こういっていた。
「ドイツ人にもいろいろあるが、しかし全体として、文化的で秩序正しい人びとだ。まったく、秩序正しいよ」と。
あるいはつぎのような、きわめてなまなましい事実もあった。二日前、ヴォローフスキイ街で数人の人たちが、疎開中のユダヤ人家庭の留守宅を占拠してしまった。残っていた親戚が、もよりのドイツ軍司令部に出かけて、苦情をいった。すると、ひとりの士官が現われて、そのアパートをすぐにあけわたすよう厳命し、ユダヤ人たちに愛想よく頭を下げて『どうぞ。ちゃんといたしましたよ!』といったという。これは文字通りおとといのことで、たくさんの人が見ていた。それで、これに関するうわさは、たちまちぱっと広がったのである。それにしても、ドイツ人は、実に首尾一貫して論理的なもんだ、と。
しかし、これが移送でないとすると、じゃいったい、なんだろう?
ジーナの話によれば、この瞬間、彼女は、ある種の動物的恐怖と疑惑のみを感じた。その精神状態は、なんともたとえようもなかった、ということだ。
人びとは、外套や防寒具をぬがされた。ひとりのドイツ兵が、ジーナに近より、いきなりものもいわずに、さっと彼女のシューバをはいだ。
とたんに彼女は、もときた方にぱっと走りだした。門のそばにいた老人たちをさがしだし、自分の見たことを話してやった。
父親は、こういう。
「娘や、おまえはもういいから、お帰り」
彼女は、鉄条網の入口の方にいった。そこには、外にだしてもらおうと必死になっている人たちが大勢いる。人群が波のように、両側からぶつかり合っていた。刺繍模様のシャツをきたひげの下役人は、相変わらず大声で整理している。ジーナは、人をおし分けて、その下役人の方にいき、自分は見送りにきたこと、町に子どもを残してきたことを説明し、だしてもらいたいと、たのんだ。
かれは、パスポートを見せろという。ジーナがだすと、かれは、『民族』欄を見てから叫んだ。
「ジュー女じゃねえか! だめだ!」
そのときジーナは、はっきりと知ったのである。これは銃殺されるのだ。
ふるえる手で、彼女は、パスポートをこなごなに破りはじめた。そしてそれを、足もとにすてた。左側に右側に。それから、老人たちのもとに帰ったが、ふたりにはなにも話さなかった。なにも、早くからおどかすこともないのだ。
もうシューバもきていないのに、ひどく暑苦しくなってきた。まわりに、あんまりたくさんの人がいるからだ。すきまのないほどの人群。汗がにじみ出る。迷い子になった子どもたちが、泣き叫ぶ。数人の人たちが、ふろしき包みに腰かけて、ひるめしをたべている。彼女は、またしても考えた。『よくごはんをたべていられるわねえ? この期におよんでも、まだ分かってないのかしら?』
そのとき、ドイツ兵たちが、大声で号令をかけはじめ、坐っている連中をみんな立たせ、前方に移動させた。すると、うしろの方の人びとが、おしかかってきて、考えるひまもないうちに一種の列が、自然とできあがっていった。こっちの方に荷物をおき、あっちの方にべつの荷物をおく。みんな、おし合いへし合いして列をつくる。その混乱の中で、ジーナは、老人たちを見失ってしまった。あちこち見まわすと、ふたりは、べつのグループに入って先に行かせられている。だが、ジーナの前で、行列が立ちどまった。
じっと立って待っている。ジーナは、父や母がどこへつれていかれるのか見ようとして、しきりと首をのばした。いきなり、すごくからだの大きいドイツ兵が近づいてきて、こういった。
「おれとねないか。そしたら釈放してやるぜ」
ジーナは、まるで気狂いを見るように、その兵隊を見すえたので、かれはたち去ってしまった。ついに、彼女のグループの行くときがきた。
話し声が静まり、みんなロをつぐむ。まるで感覚をなくしたように、ずっと長いあいだだまって歩く。両側には、ファシストどもの隊列が並んでいる。前方に、軍用犬の綱をにぎった兵隊の列が見えた。ジーナのうしろから声がきこえる。
「みんな、手をかしておくれな。わしゃ、目が見えんでのう」
ジーナは、その老人の腰を抱いて、いっしょに進んでいった。
「おじいさん、わたしたちどこへつれていかれるんでしょう?」と、彼女はたずねた。
「そりゃな」と、老人はいう。「神に最後の負債をはらいにいくんじゃよ」
そのとたん、ふたりは、両側を兵隊と軍用犬の隊列にはさまれた長い通路に入った。この回廊は、巾がせまく、わずかIメートル半ばかりだ。兵隊は、肩と肩をふれ合うようにして立っている。みんな袖をたくしあげ、だれもが、ゴムの根捧をもっていた。そして、そこを通りぬける人たちの上に、殴打がふりかかってきた。
かくれることも、身をさけることもできない。苛酷きわまる殴打は、たちまち血の出るまでにうちつけ、順に背に肩に、左からも右からもふりかかってくる。ドイツ兵たちは『シュネール! シュネール!(速くいけ! 速くいけ!)』と口々に叫び、愉快そうに大声で笑っている。まるで、娯楽にやっているようだ。かれらは、うまく狙いを定めては、なんとかして、痛みに弱い場所をできるだけ強くなぐろうとする。
みんな、叫び声をあげ、女たちは金切声で悲鳴をあげはじめた。あたかも、映画のひとこまのように、ジーナの前に、こんな光景がひらめいた。同じ街に住んでいる顔見知りの青年、いかにもインテリらしい、身なりのいい青年が、おいおい泣いている。人びとのたおれるのが、目にうつる。たおれた人たちには、たちまち、軍用犬をけしかける。人間の方は、悲鳴をあげてしがみついた。しかし、人によっては、地面にたおれたままになる。すると、うしろからおされた群集は、たおれた人たちのからだの上をふみにじって進んだ。
あまりのことにジーナの頭の中は、なにか真暗になってしまった。彼女は背筋をのばし、頭を高くあげ、まるで木製の像のようにからだを曲げないで進んでいった。ジーナは、自分が不具にされてしまったように感じた。しかし、それは、彼女の思いすごしだし、考えすごしだった。ジーナの心の中では、ただひとつのことだけが脈うっていた。『たおれるもんか、たおれるもんか』。
虚脱状態になった人びとは、まわりをドイツ軍によって封鎖された広場に、ころがり出た。草のおい茂った広い広い場所だ。いたるところの草の上に、下着や靴、衣服がまきちらされている。
ウクライナ人警官(アクセントから判断して、キーエフの人間ではなく、明らかに西部ウクライナの出身だ)が、乱暴に人びとをつかまえては、したたかなぐったり、わめいたりしている。
「服をぬげ! 速くしろ!速く!」
ぐずぐずしているものは、力ずくできているものをはがされ、腕や棍棒でなぐられる。やつらは敵意にえいしれ、一種のサジスチックな激昂状態におちいっていた。
明らかにこうしたことは、群集に正気づくいとまをあたえぬために、行われていた。大勢の裸の人びとは、だれもかれも、血まみれだった。
裸にされ、どこかへつれ去られようとしている人たちの方から、声がきこえる。母親がジーナに向かって叫びながら、手をふっているのだ。
「いいかい、おまえはだめだよ! 助かっておくれ!」
ジーナは、決然としてウクライナ警官の方に近づき、司令官はどこにいるのかとたずねた。そして、自分は見送りで、偶然こうなってしまったのだと、のべたてた。
かれは、身分証明書を見せろという。ジーナが、ハンドバッグからとりだそうとしはじめると、警官は自分でそれをひったくり、中味をすっかり点検した。中には、お金に、就労手帳、労働組合員証などがあったが、それらには民族別はかかれていない。『プロニーチェワ』という苗字が、警官を納得させた。かれは、ハンドバッグを返さずに、かなたの丘を指さした。そこには、人びとがかたまって坐っている。
「あっちへいって坐っとれ。ジューはみんな銃殺だが、おまえは、あとで釈放してやる」
ジーナは、丘の方にいって、坐った。みんな、呆然として沈黙していた。ただひとり、やわらかい毛編みのプラトークをかぶった老婆だけが、しきりとジーナに向かって、嫁を送ってきたら、こんな目に会ってと、こぼしつづけた。
ここにいるのは、みんな、見送り人ばかりだった。こうして坐っているかれらの目の前で、まるで舞台で上演されてでもいるように、あの悪夢が展開されたのだ。例の回廊から、ひと群れ、ふた群れと、うちのめされ金切声をあげる人たちが、ころがり出てくる。警官が、かれらを待ちうけて、ぶんなぐり、ひきはぐ。とめどもなく、それがつづく。
ジーナは、こう語っている。
中にはヒステリックに大声で笑っている人たちもあった。また、彼女はその目でちゃんと見たというのだが、中には、衣服をぬぎ銃殺の場に向かうあいだに、見る見る白髪に変じていく人も何人かいた、と。
裸の人びとは、小人数に区切って並ばされ、けわしい砂の障壁のあいだにあけられている入口に、つれていかれる。その向こうになにがあるかは、見えなかった。しかし、そこからは、射撃の銃声がとどろいてくる。
母親たちは、子どもたちをどうしたものかと、ただもうおろおろするばかりである。そこで、ドイツ兵やら警官やらが、つぎからつぎとやってきて、いきりたちながら、母親から赤ん坊をひったくり、砂の障壁に近よると、手をふりあげ、ちょうどまきを投げるように障壁の頂上ごしに赤ん訪を投げこんでしまう。
ジーナは、まるで輸金にしめつけられているような気分だった。彼女は、首をすくめていつまでもじっと坐っていた。となりの人たちを見るのがこわかったのである。なぜなら、その人数が、しだいにましてきたからだ。彼女はすでに、人びとの叫びも射撃の銃声も感じなかった。
暗くなってきた。

         

このテーマの項目一覧

1.バービィ・ヤールに向かう行列

2.殺戮直前の様子

3.ジーナも谷へ連れて行かれる

4.バービィ・ヤールからの逃亡