クズネツォフの記述
それは、九月二十四目、午後三時すぎであった。一階が『子どもの世界』になっている警備司令部の建物が、爆破された。その爆発はきわめて強力で、家々のガラスは、クレシチャーチク街ばかりでなく、これと平行しているプーシキン街でもメリンゴフスカヤ街でも、はねとばされた。これらのガラスが、幾階もの建物の窓という窓から、ドイツ兵や通行人の頭に落ちかかってきて、たちまち多数の人びとが負傷したのである。
プロレズナヤ街の上に、炎と煙の柱が吹きあがった。人びとが、わっと走りだす。あるものは、爆発をのがれて、またあるものは、物見だかく爆発地点をめざして。最初の瞬間、ドイツ兵たちは唖然としていたが、やがて、封鎖線を張って、燃えている建物をとりまき、通りや建物の中庭などにいた連中を、片はしからつかまえにかかった。
どこかの、ひょろ長い赤毛の青年が、ひどくなぐられながら、ひぎずられていった。その青年はパルチザンで、『子どもの世界』にラジオをさしだしにきたのだが、その中にはおそるべき仕掛けがかくされていたのだ、といううわさが広がった。
そのとき、くずれかけた同じ司令部の建物の内部で、最初と同様に強烈な二度目の爆発が、轟然ととどろいた。今度は壁がくずれ落ち、警備司令部は、煉瓦の堆積と化した。クレシチャーチクにはほこりがたちこめ、煙でおおわれてしまった。
三度回の爆発は、反対側の建物、喫茶店があり、防毒マスクの山がつまり、ドイツ軍の施設になっていた建物を、空中にふきあげたものである。
ドイツ兵たちは、映画館を放っぽりだして、「逃げろ! クレシチャーチクが爆破されるぞ!」と叫びながら、それぞれ勝手な方角へ、ばらばらと逃げだした。それにつづいて、逮捕された連中も逃げた。その中には、くだんの赤毛の青年もまじっていた。
異常なパニックがもちあがった。クレシチャーチク街は、実際に爆破されていったのである。
爆発は、一定の合いまをおいて、クレシチャーチク街の、実にさまざまな場所で、つぎからつぎへととどろきわたっていった。こういう状態では、もうなにがなにやらさっぱり分からない。爆発は、ひと晩じゅうつづき、隣接する通りにも広がっていった。サーカスが空中にふっとび、そのひん曲がった丸屋根が、波状になって大通りをふさいだ。サーカスのとなりで、ドイツ軍に接収されていたホテル『コンチネンタル』が燃えている。
これらの爆発や火事で、いったいどのくらいのドイツ人が死に、どれほどの装備や書類などが焼失したのか、だれにも絶対に分からないだろう。とにかく、これをかぞえようにも、まったくなにも判明しないのだから。
乾燥している季節だったので、たちまち火事になった。この火事に匹敵しうるものといえば、おそらく、一八一二年のモスクワの火事のみであろう。建物の最上限や屋根裏には、混合燃料のびんをつめた箱が、たくさんかくしてあった。これらの箱が、つぎつぎと、独特な重々しいとどろきをあげて爆発し、炎の束で建物をなめまわす。これで、クレシチャーチクは完全にやられてしまった。
まったく勝ち誇ってここに入ってきて、すっかりいい工合に住居を定めたドイツ兵どもが、いまとなっては、まるでネズミとりにでもかかったようにクレシチャーチクでじたばたやっている。かれらは、なにがなにやらさっぱり分からず、どこへ逃げていいかも分からなかった。市民たち、うまくふろしき包みをもちだせた人や、なにかの用事でこの辺にいた人たちは、ドニエプルのほとりの公園や、ウラジーミル丘、シェフチェンコ並木通りなどに逃げこんだ。やけどを負った人たちも、たくさんいた。
ドイツ軍は、市の中心地全域を封鎖した。火事は広がって、いまではもう、プーシキン街、メリンゴフスカヤ街、これらを横断しているプロレズナヤ街、インスチトゥーツカヤ街、カール・マルクス街、フリードリッヒ・エンゲルス街、パッサージ街までも燃えあがっている。まるで全市中が爆破されているといった印象だった。
戦前にキーエフでは、地下鉄の工事がはじまっていた。それがいまになって、実はあれは地下鉄じゃなくて、キーエフ全市の地下にものすごい地雷をうずめる工事だったなぞといううわさが、ささやきかわされた。みんな、家から出て、なるべくクレシチャーチクから遠くへと急いだ。なぜなら、つぎの爆発がどこで起こるのやら、さっぱり見当がつかなかったからである。
ドイツ軍は、急いでどこからか長いホースを飛行機で運びこみ、それを、なんとドニエプル河からピオネール公園をつっきってのばし、強力なポンプを用いて水をくみあげたものである。しかし、水はクレシチャーチクに達しなかった。公園の草むらで、だれかがホースを切断したのである。
キーエフの中心街の猛烈な炎の上に、強い上昇気流がつくられた。その気流にのって、あたかもパイプを通るように、燃えている木くずや紙きれ、燃えさしなどが送られ、べッサラフカやペチェールスクなどに、ふりかかる。それで、あちこちの屋根に、ドイツ兵や、警官、管理人などがよじのぼり、燃えさしに砂をかけたり、燃えかすの炭をふみ消したりしている。焼けだされた人たちは、スタジアムにある防空濠の中で夜を明かした。
ドイツ軍は、焼け死んだ仲間の死骸すら手に入れることができなかった。ことごとく燃えつきていたからである。ここ数日、ドイツ兵が掠奪した物品も、すべて燃えていた。
数日間、火事とたたかったあげく、ドイツ軍は抵抗をやめてしまった。そして、この焼熱地獄からぬけ出て、ただ、遠まきに見守っているだけだった。
クレシチャーチク街は完全に無人の状態の中で、燃えつづけた。ただ、つぎつぎとどこかの建物で、轟然と屋根がくずれ落ち、壁がたおれるだけで、そのときには、ひときわたくさんの炭火や火の粉が、ぱあっと空にまいあがるのだった。町じゅうに、こげ臭い匂いが、すっかりしみこんでしまった。夜ごと夜ごと、町は真赤な光にひたされていた。そして、この空焼けは、あとで人びとの語り草になったのだが、数百キロのかなたから望まれたという。
爆発は、九月二十八日になって、やっと静まった。火事の中心は、二週間にわたって燃えつづけ、その二週間のあいだ、近辺は自動小銃をもった兵隊たちに封鎖されたままだった。
封鎖がとけて、ドイツ軍が火事のあとにいってみたものの、実をいうと、街はもはやなくなっていた。両側からたおれかかった建物が、障害物のようになっている。通り道の清掃作業に1ヵ月もかかった。灼熱の廃墟は、いつまでもくすぶりつづけている。十二月に入っても、ところどころ煉瓦の下から、細い煙の筋がもれていた。わたし自身、そういうところを目撃したのだから。クレシチャーチクの爆発と火事は、悲劇的かつ英雄的な一ページとして、当然、戦史に残るべきだと、わたしは考える。
これに相当する規模といえば、たとえば、庭園環状通りの内側のモスクワ中心街、レニングラードのネフスキイ・プロスペクト、ならびにその周辺一帯とか、あるいは、大ブリワール以内のパリーの心臓部が爆破され焼失したということになろう。それは、この種の行動のうちで、歴史上はじめて、厳密に準備されたものであった。このクレシチャーチク街の火事ののち、ドイツ軍には、つぎのような習慣がはじまった。接収した家を一軒一軒、探索して、『地雷なし』とかくのである。
いかなるヨーロッパの首都も、キーエフのようにドイツ軍を迎えたところはなかった。キーエフは、もはや身を守ることができなかった。かれは、とり残され、敵の足下に横たわっていたのである。しかしかれは、敵の日前でわれとわが身を焼き、多くの敵を墓場に運び去ったのだった。ドイツ軍は、多くの西ヨーロッパの首都に侵入したときと同じ調子で、どんちゃん騒ぎをやるつもりで、侵入してきた。しかし、大地自身がかれらの足下で燃えはじめるという、手ひどいびんたをくらったのである。
クレシチャーチクの歴史的叙事詩の中には、まだ多くの不明の部分がある。さまざまなうわさや伝説なども残っている。ホテル『コンチネンタル』のフロントにおどりこみ、起爆装置のスイッチを入れ、自分もその爆発でたおれたという無名の決死隊員に関する話もある。また、べつの勇士が、ドイツ兵でいっぱいの映画館『シャンツェル』を、上映時間中に爆破したなどとも、いわれている。これらすべてを、確認するのはむずかしい。ドイツ軍は、ほとんどなにも発表していないし、公開ではひとりも死刑に処さなかった。しかし、明らかに、クレシチャーチク街におけるこの稀有の行動を遂行した地下活動グループは、その大半がたおれていったに相違ないのである。
クズネツォフ『バービイ・ヤール』(草鹿外吉訳 P.53-57)
